リング
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カチャリ。微かな音と共に、床の上に一本の鍵が落ちた。錫で出来た古めかしい鍵は、閉じられた扉のノブ部分と同じ意匠で作られている。それを拾い上げて、店主はうっとりと微笑んだ。
「あぁ……これでようやく、この扉が手に入った。喜んでくれるだろうね? 流華」
店主は手にした鍵を扉の鍵穴に差し込み、左に回した。少々鈍い音がして扉の鍵が開く。店主はドアノブを回して扉を開けた。その先に先程のような闇はない。うっすらとカーテンに遮られた外の明かりが、部屋の中を柔らかく照らしていた。一瞬、眩しそうに店主は目を細める。
「さて、これから寝ても4時間か……。仕方がない、今夜は店を閉めるようだね、流華」
店主は誰もいない部屋へ向かってそう呟いた。それから着ていた着物を脱ぐと、肌襦袢一枚になって小さく漏れた欠伸をかみ殺した。透けるような絹の襦袢をしどけなく揺らして、店主は誰もいないベッドに横たわった。
「おやすみ」
誰にともなくそう呟いて、昼の強い日差しが透ける部屋の中で店主は穏やかに眠りに就いた。
仕事を終えると、ここ最近毎日のように通っている流華堂にやってきた壊し屋は、訪問者に気付いてベッドの上で身じろぎした流華に近づいた。
「壊し屋さん……?」
寝ぼけた声に、壊し屋は口付けで応えた。眠りから完全に覚醒していない流華は、するりと入り込んでくる壊し屋の舌を抵抗なく受け入れた。壊し屋は反射的に身を起こそうとする流華の体を軽く片手で押さえ込んで、そのまま口内を思うままに蹂躙する。息もつかせぬほどの激しい口付けに、流華が苦しそうに眉を寄せる。
「ん……っ」
胸元を強く押し返す流華に従って、壊し屋は口付けを終わらせた。ほんの僅か、唇を離すと、息苦しさに上気した流華の顔が目に入る。そこに性的な興奮の色はない。いつものことながら、壊し屋は僅かに肩を竦めずにはいられなかった。
「……お帰りなさい」
まだ眠気の残る声で言った流華の細い喉に、壊し屋は痕を残すくらいに強く口付けて離れた。流華がベッドから出る間に、壊し屋は部屋の電気をつけるために壁際へ寄った。部屋が明るくなると、寝巻きにしている肌襦袢の上にそのまま着物を羽織っている流華の姿が見えた。そこで自分が上着を着たままだということに気付いた壊し屋が上着を脱ぐ。そしてそれをそのままソファに投げようとしたとき、壊し屋は部屋の異変に気付いた。
「おい、この扉……」
「扉がどうかしましたか?」
開かずの扉が開いている。勿論それが開くものであることは壊し屋も知っていた。流華がそう言っていたことがあるからだ。しかし、実際にその扉が使われているところは見たことがなかったのだ。鍵が開いていたこともない。
「開いているところは初めて見たな」
壊し屋はソファへ上着を投げて、そのまま扉へ近づいた。着替えの終わった流華は壊し屋を追うことなく、部屋の中央にあるカウンターへ向かった。そしてポットのお湯を確認しながら何気なく答えて言った。
「……あぁ、鍵が手に入ったんです」
「鍵?」
尋ねると、寝ている間もずっと握っていたのか、流華は右手を開いてその鍵を壊し屋に見せた。胴の長い、古めかしいデザインの鍵だった。
「えぇ、正式に持ち主から譲り受けたので」
流華が手にぶら下げて見せるそれを、壊し屋は目を眇めて見た。鍵自体に問題はない。問題は、流華がそれをいつ受け取ったのか、ということだった。
「今日、か?」
壊し屋が問うと、流華はこくりと頷いた。
「そうです」
今朝、壊し屋は流華が仕事を終えて寝入るまで、一緒にベッドに入っていた。流華が寝付いてから壊し屋は仕事へ出掛け、そして夕方、流華がまだ寝入っているこの部屋に帰ってきたのだ。急な訪問客などなかった。郵送などでも有り得ない。鍵を受け取ることなどできないはずだった。流華が壊し屋のいなかった昼間、本当に寝ていただけなのだとしたら。
「……そろそろ時間だが、店は開けないのか?」
自分で矛盾を感じないのか? とは訊かなかった。流華が壊れていることは疑いようもない。だがそれを流華に教えてやる必要があるかどうか、壊し屋は図りかねていた。
「今日はお休みします。ゆっくりしたいので」
「そうか」
扉の向こう側に何かが落ちている。それに気付いた壊し屋は、扉を閉めるふりをしてフローリングの床に落ちたものを手に取った。その背に流華の穏やかな声がかかる。
「珈琲はいかがですか? 壊し屋さん」
だが流華は壊し屋の返事を待たずに二人分の珈琲を注いでいる。背を向けていても珈琲が注がれる音でそれがわかった。
「……あぁ」
遅れて返事をして、壊し屋は自分の手の平に転がったものを見た。白く、そしてとても脆くなっているように見えるそれは、人の指の骨だった。おそらく薬指。だがもはや肉もない状態ではそれが男の指だったのか、女の指だったのかさえ分からない。
「壊し屋さん?」
背にかかった声に、壊し屋は手の中の骨を握りつぶした。元々脆くなっていた骨は、壊し屋の手の中で粉々に砕け散る。それから振り向いて、壊し屋は答えた。
「手を洗ってくる」
壊し屋の言葉に、流華は面白そうに微笑んだ。壊し屋はその笑みを受けて洗面所へ向かったが、その時かけられた流華の声に違和感を覚えて立ち止まった。
「お行儀がいいんですね」
一瞬、誰の声か分からなかった。酷く冷たい声に聞こえたが、驚いて振り返ると、そこには当然のように流華しかいなかった。その流華は、突然振り返った壊し屋を不思議そうに見ている。何も、おかしなところはなかった。
「……あんたの前だからな」
壊し屋の答えに、流華はにっこりと笑った。行儀のいい飼い犬を褒めているようにも見える笑みだ。
『壊し屋さんなら、僕を直せるのではないかと思うのですけど』
かつて流華がその意味も考えず言った言葉が思い出された。壊し屋はすり潰した骨の粉が残る手を洗い落としながら、流華を壊すべきかどうかを真剣に考え始めていた。
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